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ヨルシカの似合う人になりたかった。

美しくも儚い「前世」の記憶

ヨルシカとはどのような人なのだろうか、もしも何かにヨルシカを喩えるとするならば──私だったら、「水」と答えるだろう。
水は、どんな形にもなれる。
固体、液体、気体になって、気付かないうちに私たちの体内を巡っている。

時々思う。
私はヨルシカを聴くに値する人間なのかと。

それでも、私はあの日、確かに感銘を受けたんだ。ヨルシカの音楽に。

新曲を出せばまた新たな物語に心を奪われ、旧譜を聴き直しては感動を思い出して。
ヨルシカの紡ぐ音楽は、物語は、どこまでも綺麗で、美しい。

しかし、私はそれを何かに昇華することが出来ずにいた。
曲を創ること、詩を書くこと、絵を描くこと。
何かを創作するということが、私にはできなかった。
感想を書いても言葉足らず、ヨルシカの魅力を書き尽くすにはいい言葉が思いつかない。
美しい音楽を受けても何も出来ない自分に、ヨルシカは“似合わない”のではないかと、時々思うのだ。

配信ライブ「前世」の開催が発表され、私は、ライブというこの短い瞬間を、絶対に書き残しておきたいと思った。
だから、どれほど拙い文章だったとしても、そこに自分の心があればいい。
この文章を読めば、2021年1月9日の、あの時間に戻れる。
そんな文章を、どんな形であれ、今なら書ける。そう思った。


これは、自分の「前世」の記憶を思い出す、備忘録である。


深い深い海の底。
水面から海底へと差し込む光は、太陽のものなのか、月のものなのか、私にはわからない。
その情景は、ヨルシカの楽曲、「憂一乗」を彷彿とさせた。

そこに、ボーカル・suisの澄んだ歌声が響く。
原曲よりもテンポを遅めたアレンジの、「藍二乗」だ。
そこには確かにヨルシカがいた。
私がずっと会いたかった、声を聴きたかった彼らが、海底で、魚の群れと共に演奏していた。
いつだったか、suisが人魚になって海の中で魚たちと歌いたいと言っていたことを、ぼんやりと思い出す。

そこから「だから僕は音楽を辞めた」「雨とカプチーノ」「パレード」と、フルアルバム2枚に収録された曲が続く。

長い長いアレンジの効いたイントロが終わって始まったのは、ヨルシカの代表曲の1つとも言える「言って。」。

更にsuisが別室に移動し演奏された「ただ君に晴れ」は、テンポを落としたアレンジになっていて、原曲とはまた違った魅力が顔を見せた。

「ヒッチコック」では画面がモノクロになり、どこか懐かしい雰囲気を醸し出していた。

その後は最新アルバム「盗作」に収録されている「春ひさぎ」「思想犯」「花人局」が続く。
力強い低音が響くかっこよさと切なさ、儚さを含んだsuisの歌声はn-bunaのリードギターを始めとする楽器陣との相性もとても良く、アルバム「盗作」の初回限定盤に付録されている同名の短編小説を思い出させる。
ヨルシカのバックで泳ぐライトアップされた魚の群れは、涙が出るほど美しかった。

少しの間があってから演奏されたのは、聞き覚えのないイントロ、Aメロ。
初解禁の新曲かと思いながら、集中して歌詞を聴き取る。

『高架橋を抜けたら雲の隙間に青が覗いた 最近どうも暑いからただ風が吹くのを待ってた』

「盗作」収録曲である、「花に亡霊」を感じさせる歌詞。
暖かい春の雰囲気。
大水槽の魚たちは濃いピンク色に染まり、大きな桜の木から散り行く花びらを連想させる。
新EP「創作」に入る曲のタイトルを、頭の中で一周させる。
しかし、次の瞬間耳に飛び込んだのは、過去に聞いたことのあるメロディであった。

『はらり、僕らもう息も忘れて 瞬きさえ億劫 さぁ、今日さえ明日過去に変わる ただ風を待つ』

もう10ヶ月も前なのか、昨年の3月にCMタイアップ曲として、サビの10数秒のみが発表されていた曲──「春泥棒」。

やっと出逢えた。やっとフルで曲を聴けた。
ずっと待っていた「春泥棒」という曲を、この「前世」というライブの最前列で聴けた。
本当に嬉しかった。
また新たなヨルシカの物語が始まるのだと思うと、今から「創作」のリリース、また未発表曲への期待も、更に高まった。

インスト曲の「海底、月明かり」が終わると、ストリングスの演奏が始まり、「ノーチラス」へと繋がっていく。
以前、n-bunaが「ノーチラスはヨルシカの始まりの曲」と言っていたことを思い出す。
「海底、月明かり」の間、右回りに回転する時計のような円が何重かに広がり、まるで太陽系とその周りを流れる流星のようになっていたのは、ヨルシカの原点を人類の起源と重ね合わせて表現していたのかもしれない。

ストリングスとキーボードのみで演奏され、唯一suisが立ったまま歌い上げた「ノーチラス」、そしてそれに続いた「エルマ」は会場の空気感も相まって原曲よりも壮大な雰囲気を醸し出していた。
エルマとエイミーの物語はどこまでも美しく、そして切ない。
ヨルシカのバックの大水槽はいかにも深海を模しているようで、エイミーが最期に見た景色はこのような感じだったのだろうかと、思わず思いを馳せてしまう。

そしてイントロアコースティックギターに重なる音数が増えていくにつれ私の中の高揚感は高まっていく。
これで最後の曲、「冬眠」。
座りながら伸び伸びと歌声を響かせるsuis、その右手側にはエレキギターを踊らせるn-buna。
ヨルシカの背後の大水槽で泳ぐ魚の群れは、心做しか嬉しそうな気がした。
そこにある全てがヨルシカの「前世」というライブの作品の一部になっていた。

「冬眠」が終わって、魚たちが泳ぐ大水槽にはスタッフロールが映し出された。
その後には画面が暗転し、ヨルシカのロゴが浮び上がる。
本当に終わってしまったのか、終わらないでくれと思わず願ってしまった。

ある種、放心状態というか、言葉にしておかなくては、と思うのだけれど、どうしてか一言も出てこなかった。頭の中では最後の曲「冬眠」の『言葉とかいらないよ』がこだましていた。

いつかは終わってしまうライブが、どうしても愛おしい。綺麗で、美しくて、儚くて。

他の誰でもないヨルシカの、他に例を見ない配信ライブ。
コロナによって観客を入れたライブが出来なくなっている中、本物が目の前にいるライブに負けないほどの、いや、もしかしたらそれ以上かもしれない、素敵なライブだった。

こんなにも「芸術作品を作り上げるバンド」が他にあっただろうか。
もっと確実に言えば、一つ一つの芸術作品作り上げるのではないのかもしれない。
「ヨルシカ」というバンドは、もうそれ自体がひとつの芸術作品であると、私は思う。
彼らの紡ぐ世界は、小説のようであり、映画のようであり、けれど確かに音楽だ。邦楽だ。ロックだ。
それはライブであっても、MVであっても、アルバムであっても、変わることはない。

「ヨルシカ」は、「ヨルシカ」という作品は、時を超え、人々の記憶に、心に、残り続ける。

言葉で言い表せずとも、創作に昇華できずとも、たとえ「ヨルシカ」が似合わずとも、私はそれでいいと思った。

いつの間にか体内を巡り、気づいたら思いを馳せている。
「ヨルシカ」を感じる度に私は、どこかで、彼らのことを思い出すのだろう。
もちろん、あの日あの大水槽で泳いでいたエイのことも。



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この備忘録が書かれたのは、「前世」を見たすぐ後のことである。
何度も何度もアーカイブでライブを見返してはまた新たな発見をし、違った見方や考察を仲間たちと交わした。

ライブを観てすぐに音楽文を書き始めなるべく早く投稿しようと思っていたのだが、文章の途中で記録が途切れてしまったこともあり、またやはりヨルシカの魅力を文字に起こすのは難しく、もうこれは投稿しなくていいかなとも考えていた。
だが、DVD・Blu-layの発売をきっかけに、あの時書いた感想がどこかにあったはずだとこのファイルを開いた。
思っていたよりもあの時間が鮮明に、また辛かったことや考えていたことなどなどが私の心のどこかを擽った。
何ヶ月かたった今、もう既に忘れ始めていた前世の記憶が、色鮮やかに思い出されるようだった。

元々この文章はDVD・Blu-lay発売の発表前にそのほとんどが完成していたため、どこか閉ざされてしまった場所にあるのかもしれない記憶に語りかけるような設定が根底にあるが、今では円盤化されることが決定しているので、またいつでも何度でも、「前世」と共に楽しんでいただけたらなと思うと共に、あの感動のすぐ傍にいられることをとても嬉しく思う。

もうあの日から4ヶ月も経っているけれど、この音楽文がどこかの誰かに、ヨルシカが好きな人にもそうでない人にも、「前世」を見た人にも見ていない人にも読まれ、また新たな魅力を見出してもらえたら、こんなに嬉しいことはない。
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