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ROMANCEは何かを終わらせたのか

私の見たエレファントカシマシの野音と、宮本浩次のROMANCE。

■2020年10月4日 日比谷野音について

あれ、野音って、こんな時間が止まっているようだったっけ。

エレファントカシマシ31年目の野音の配信を見終わって、配信終了画面が映り続けるテレビを前にぼーっとしていた。

コロナの影響を受け退職を決意して、次に目指す暮らしのために職業訓練校に通い、そうして迎えた休み、この日を何よりも楽しみにわくわくしていた。新春ぶりのエレファントカシマシのライブ。パソコンをテレビに繋いで、飲み物とグッズのタオルを用意して、準備万端でライブを見た。

大好きなバンドの登場にテレビの前で拍手をして、笑顔になって、大好きな《「序曲」夢のちまた》ではじまり、ああそうだエレカシのライブってこうだった、と懐かしさと愛おしさすら感じる。2017年に参加した野音の、虫の音や湿度のある風、エレカシの音が東京にとけていく感覚を思い出しながら、今の時代も反映されたようなセットリストを真剣に見ていたはずだった。
けれど終わった自分は戸惑っていた。

時間が止まっているようだった。
まるで、あそこだけ点在しているような野音。

何にそう感じたのか、自分でも全くわからない。そんなエレカシを初めて見た気がした。
はじまってすぐ、なぜかわからないけれど宮本さんはもう、エレファントカシマシを連れていかないのではないかと感じた。エレカシを引きずって進まない。一人で行くんだ。自分が追うものと、エレカシをはっきりと別けている。だからこそ、ソロがあるからこそ生まれた何か余裕のようなものを、自信や自由さのようなものを持って挑まれる姿に見えていた。

画面に映るのは大好きなエレカシで、トミも成ちゃんも石くんもいる。それなのに、やっと開催できたライブに対して、止まっていると、そう感想が浮かんでしまったことが自分でもわけがわからなくて怖くなった。
30周年から自分が見ていた、あのエレファントカシマシとは違っていた。いや、いつだってエレカシはその時々の「今」の姿があったけれど、留まっていると感じたことはなかった。

周りのエレカシらしいコンサートだった!と嬉しそうな感想を見つめながら、そうか良いコンサートだったのだなと思った。そう感じられない自分は、エレカシのこと、好きではなかったんじゃないか。

その日はもやもやと悩んでいるうち、The Coversの放送時間になった。
10月4日は、野音の配信に続いて、宮本浩次ナイト!と称したThe Covers第一夜の放送日で、そこで目にした《木綿のハンカチーフ》《ロマンス》《二人でお酒を》は、戸惑っていた気持ちを吹き飛ばしてしまうほどだった。

翌朝、訓練校に行くためにバスに揺られながら、素晴らしかったThe Coversとソロのこと、自分の中で整理がつかないでいる野音とエレカシのことをずっと考えていた。自分が感じたその差が、何か許せなかった。

エレカシが、止まっていると感じてしまったのなら、だってそれは、もう、エレカシは終わってしまったんじゃないのか。
そう考えが至って、すぐに頭の中からかき消した。
そんなわけない。

《 くもった部屋の空気で息をした
  いまだに死ねぬ哀れなる虫の音と
  秋の夜長を共に遊んでいた 》「晩秋の一夜」

* * *

■2020年11月 エレファントカシマシについて

野音から一ヶ月以上経ち、ROMANCEも発売して少ししたころ。
ROMANCEを聞きながら過ごせる日々を幸せに思いながらも、相変わらず私は学校に向かうバスの中で野音のことをぐるぐると考えていた。エレカシを止まっているように感じたこと。エレカシは終わってしまったのかということ。

私がエレカシのファンになったのは2017年のことで、私はそこからのエレファントカシマシしか知らないし、音楽の良し悪しを語るような知識もない。ただエレファントカシマシを、宮本浩次を大好きで生きてきただけ。その自分が受け取ったものとちゃんと向き合って理解したい。

エレカシらしい野音だった。でも何か違う。違和感がないことが違和感のような感覚。

2017年、はじめて生で目にしたエレファントカシマシは、音楽に身を準じるプロフェッショナルという印象だった。次の野音では音楽を純粋に求めているような姿。30周年ツアーが進み、県としては千秋楽であった富山では、最初こそ千秋楽の歓迎と感激の空気があったけれど、どこか近づいては離れ、音楽と勝負する姿と、最後には待つ男を真っ赤な照明の中叩きつけられ、決して大団円に終わらせず紅白へと進む姿をみた。まいった、やられた、と最後に思ったのを覚えている。
2018年に30周年ファイナルとなるさいたまスーパーアリーナでは、30周年の光を途切れさせないよう丁寧に繋ぎ、アリーナなのに距離が近く親しく感じるほどの、かつてない温かさと光に満ちた、メジャーで、大きな姿。足はしっかりと地についていて、どこかちゃんと深い悲しみと、初めて疲れのようなものをみた。

2020年の新春東京では、再構築中のエレファントカシマシをみた気がした。東京から帰宅して家で座り込んだ私に、姉がどうだった?ときいたとき、自分でもわからないけれど「宮本さん、エレカシを大きく見せるのやめたんだと思う」という感想が口をついてでた。
あの新春コンサートでは、《俺たちの明日》や《新しい季節へキミと》のような、メジャーで大きい曲の響きが全く違っていたように感じた。あの30周年で感じていた、宮本さんを先頭になる大きな四人一個体の生命体のようなエレカシの作る、壮大な光の塊というのとは違う、もっと等身大の、見たことないスケール感のエレカシだった。ああ、この新しい季節へキミとの側面は、とても好きだなと感じた。

常に、そうしてエレファントカシマシのコンサートでは、進み続けている、変容し続けている姿があった。
手元に届いたものを見つめて、エレカシに視線を戻したときにはエレカシは先を進んでいる。
それを見るたびに、自分も行きたい!と、追いかけるように進んで生きた。

だからこそ、あの野音で受けた印象に戸惑った。進み続けていたエレカシが留まっている。なんでかわからないけれどそう思ってしまった。
そしてそこにいたエレカシは、30周年のときにあったような、あたたかい光に満ちた、捧げるようなエレファントカシマシとも違ったし、宮本さんのソロで感じる楽しさとも全く違っていた。

エレカシは、終わっちゃったんだろうか。

何度目わからない自問自答をしたところで、
なぜかバスの中で唐突に、ぱっと何かが晴れた。

あの場に留まるようだったエレファントカシマシ。
ああ、でもそれって、別に悪いことでも、終わっていることでもないのかもしれない。

前に、エレカシは会社みたいな姿がある、と思ったことがある。
四人のエレカシの姿とは別に、生きて転がり続けるために、たくさんの人を招き入れて変容し続けてきた一面。
2019年30年目の野音は、その面への歴史や感謝に触れるようだった。あれは、もしかしたら会社としての、変容し続けるエレカシの一区切りだったのもしれない。
エレファントカシマシという会社が揺らがないものになって、もう無理に変容し続ける必要がなくなったんじゃないか。
そうして、あらためて、たくさんの人を招き入れたのではない、はじまりの四人の、エレカシらしい、エレカシの姿となることを探って、そのときを待っているのではないか。

ああ、あの野音。
止まっているのでなかった。
エレファントカシマシという確固たる場所になったんだ。
皆がいつでも求め、訪れることができる場所。

2018年の野音は、大雨だった。外聞きのために公園にはたくさんの人が集まっていて、大雨が降る中、それぞれ思い思いの場所で、思い思いの格好で、見えもしないのにじっと会場を見つめていた。
濡れる日比谷公園と、雨で霞む景色、葉で跳ね返る雨粒。その中で、一心にエレファントカシマシの音をたよりにする人々の背中。
あのとき、今まで人生で見た中で、一番美しい光景だと思った。

いつだってあの四人の姿を、音をたよりに、雨が降ろうが、どんな病がはやろうが待っている。
石くんと、トミと、成ちゃんと、そうして宮本さんが、四人がステージにいて演奏し、歌うことで感じられるものがあるから。
日々に、自分の中に、エレファントカシマシの曲が生きているから。

ああなんだ、エレファントカシマシは終わってなんかいない。
いつだって、あそこにある。
いつだって、訪れることができて、変容して変容して進み続けなくとも、エレファントカシマシは、確かに生きてる。
ずっと続く火が、ここにある。

そうしてその場所は、宮本さんのソロがあったからこそ生まれたように感じる。
宮本さんの求めるものをエレカシから引き剥がし、ソロで転がり続けていくからこそ、そこに四人のエレカシがある。
まるで宮本、独歩。で、求められ捧げたからこそ、中心に宮本さんの根本が現れたと感じたように。

ROMANCEは、宮本浩次のソロは、何かを終わらせてしまってなんかいない。
むしろ今から、「らしい」かたちで、またあらたにはじまっていくような感覚がする。

野音を見てから感じていたことに、自分なりに少し整理がついた気がして、忘れないようにスマホにメモした。バスの窓外に目をうつすと、いつもの交差点にある木が紅葉していて、冬が近いなと思った。

《 俺達は 確かに生きている 》「武蔵野」

《 shining 今が俺の目指した場所
  そして俺の始まりの場所 》「shining」

* * *

■2021年5月 ROMANCEについて

ROMANCEと共に冬を過ごし、気がつけば桜が散ってしまった。
訓練校を卒業して、希望していた業界でぶじ就職が決まり、在宅での仕事にもだいぶ慣れてきた。

仕事が一段落したところで、ベッドで眠る猫の横に寝転んだ。
大きい窓から日が差す中で、気持ちよさそうにひっくり返って眠る猫のお腹に手をあてて穏やかに過ごしていると、こんなんでいいんだろうか、と不安になる。
一年前の緊急事態宣言の中で決意して、自分で望んだものを学んで勝ち取ったのに、どうにも誇れずにいる自分がいる。
逃げてしまったような後ろめたさ。
籠城しておきながら、連れ出してほしいようなずるさ。

毎日毎日、傷ついて外で生きていたときのほうが、街を救いを求めるように必死に見つめて、世の中への解像度が高く、思いはずっと鋭くて深かった。でも今はもっと抽象的で寝惚けているようで、外の季節も見逃してばっかりだ。

2017年、27歳だったあのころ、エレカシに出会って、宮本さんの生きている姿をみて、うまれて初めて心が生まれたような気がした。自分もこの人みたいに向き合って、生きたいと思った。
ずっとずっと、共に歩いているような、追いかけているような気持ちだった。
あれから4年。その間に住むところは2度変わったし、仕事は4度変わり、気がつけば父を亡くしてから14年、母を亡くしてからは10年経った。
それでも結局、元と同じところで、ぬくぬくと暮らしている。

もちろん穏やかなようでいて唐突に突き落とされる地獄はあって、その度にどこにも行けない気持ちで真っ暗になるときもある。
父や母のことは、時間が経つほど記憶は朧げになっていくのに、存在や、静かな悲しさや寂しさは水が増すみたいに大きくなっていく。

自分の底に、色のない川が静かに流れ続けている。
燃え続く火もあれば、増し続ける水もあるということを、こうして寝転んでいるときも、深く深く知っていく。

ああでも、そういう、相反するようでひとつのことを、私は宮本、独歩。とROMANCEにも感じているな、とそのときぼんやりと思った。

宮本、独歩。の真ん中に感じる川のような、正しい方へと流れる、巡りのよいもの。
ROMANCEに漂う、生命力と思いの灯りのようなもの。
どちらかが一方が男であればどちらかが女で、太陽であれば月だし、赤であれば青、現であれば夢だ。

ROMANCEが発売される前、少しずつ配信されていく曲を聞きながらアルバムの発売を心待ちにしていた。
まだ見ぬアルバムのことを思うとき、なぜかいつも浮世絵で描かれた大きな大きな、賑やかな酒席のようなものが頭に浮かんでいた。大きな机が2、3あって、そこで男の人達が、お酒を片手にわいわいと語り合っている、そんな図だった。
女性曲のカバーアルバムにはどうも似つかわしくないイメージだけれど、なぜかこのROMANCEというものに、思い出や夢、そして永遠と続く人の繁栄や活気、生命力みたいなものを感じていた。

日本全ての酒席の場のような、日本全ての語らいの場のようなアルバム。
時代も人生も宮本さん自身も含められたこのアルバムの語りかけに、
どうか世間が応えてくれますようにと祈っていた。

その一方で、このアルバムには女性の柔らかく青い毛並みのある、悲しさや寂しさ、愛や孤独もある。
仄かに灯るマッチのような夢。マッチ売りの少女が、何度も何度もすがるように灯してみるもの。

宮本浩次の歌が、歌の世界を無限の広がりをもって描写していく、その上で、愛されなかった主人公を歌でもって愛すという全くの矛盾の成立。
あの火と、川のように相反するものはここにもある。
エレカシの曲のように自身を重ね抱えて、部屋でじっと大切にするような思いも、
宮本、独歩。や、流行りの歌にあるように、気軽に聞きながら過ごす音楽の根源的な時間も、
時代ごと含めた人の活気も、傷も癒やしも、重さも軽やかさも、愛おしさもあらゆる部分が、境界なくこのアルバムにある。

そう考えたところで、ああそれって、曲ごとに色んな面があるエレカシの源流みたいだ、と思った。

宮本さんが各インタビューで歌謡曲のルーツについて語っていたように、宮本、独歩。とROMANCEは根本、にあたる。
最新のアルバムであるけれど、様々なものを含んだこのアルバムを通り、そこからエレファントカシマシの多様な面を持った曲たちの枝葉が伸びていっているように感じる。
そうしてもう一方には、ソロの枝葉が伸び伸びと、あらたに伸びている。

寝転がっていた体を起こして、なんだか一人でわくわくと興奮していた。
だってそんなに気分の良い、正しくて整理されたことってあるだろうか。
今、宮本、独歩。とROMANCEによって宮本浩次の根本が、しっかりと出来上がったのだとしたら。

* * *

燃え続く火と、水を増し流れ続ける川。

エレファントカシマシが確かに生き続けているように、ROMANCEが時代ごと繋いでいくように、
父や母が貫きたかったものの、何か純なものの遺りが、悲しさだけではないものが自分に灯り、流れている気がしている。
自分もいつかこんな人生の中で、傷つこうがぬるま湯だろうが、幸不幸だろうが関係なく、誰かにほんの少しでも、何か守りたかった純なものを、一滴でも繋げたらいい。

部屋にぽつりと座る今の自分を、やっぱり誇ることはできないけれど、
でも2017年から、心から大好きと言えるものがあるということは、
ずっとそれと向き合い続けて共に生きて、どんな血を流しても守り抜く諦めの悪いところは、
私の誇れる部分のように思う。

これからも自分の人生全てで受け止めて、曲の一つ一つと共に歳を重ねていきたい。
そうしてまた変わっていく自分で、何度だって曲と出会いたい。
今を生きている宮本浩次と、エレファントカシマシを見つめていたい。

エレファントカシマシと、宮本浩次。
それぞれを思うと、四方八方に、まさに縦横無尽に枝葉を伸ばす、とんでもなく大きな、美しい木が浮かんでくる。
その木を思うと、とてもわくわくしてしまう。

これから、とても大きくて素敵なものを見られる気がするから。


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