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「クルマ」と音楽と資本主義

The Smithsと交通事故、Radioheadとエアバッグ、The 1975とカーセックス

 資本主義というシステムはあまりにも強大だ。我々は資本主義無き世界を想像することすら困難な時代を生きている。しかし、資本主義システムの限界は至る所で指摘されているし、音楽の過度の商業主義化の問題は資本主義システムが存続する限り完全に解決されることはないだろう。むしろ「ポピュラー音楽」に関して言えば、そもそも資本主義の中で生まれたものであり、その意味で資本主義と「ポピュラー音楽」は表裏一体の関係にある。
 大澤真幸の『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』とマーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』は、資本主義に代わるシステムを考える際にポップカルチャーにヒントを見出そうとする。前著は、我々が未だ「資本主義後」の世界を想像できていないとして、サブカルチャーがその世界を想像することができるのかを模索したものであり、後著は、「資本主義は唯一の選択肢である」という認識が、実際の資本主義の頑健さ以上に人々に信じ込まれてしまっているという認識を「資本主義リアリズム」と表現し、「資本主義は本当に唯一の選択肢なのか」をイギリスのポップカルチャーを踏まえつつ再考したものである。
 日本とイギリスでほぼ同じ時期に「資本主義後」の可能性をポップカルチャーを通じて模索する著作が発売されたのは単なる偶然であろうか。やはり、資本主義のオルタナティブを考えるにあたり「ポップカルチャー」が大きな意味を果たしうるのではないだろうか。以下、大澤やフィッシャーに倣って、ポップカルチャー(特にイギリスのロックミュージック)を通じて、「資本主義のオルタナティブ」を考えたいと思う。特に、ここではイギリスのポピュラー音楽において資本主義の象徴たる「クルマ」がいかに表現されているかに注目することで、ポップカルチャーの資本主義に対する姿勢を考察したい。
 以下、80年代、90年代、10年代を代表する英国ロックの名曲であるThe Smith / There Is A Light That Never Goes Out、Radiohead / Airbag、The 1975 / Love It If We Made Itにおけるクルマの描かれ方から、クルマと音楽と資本主義の関係を考える。

□交通事故という劇薬——The Smith / There Is A Light That Never Goes Out
 The SmithのThere Is A Light That Never Goes Outは、同バンドを代表する名曲であるに留まらず、イギリスの80年代を代表する楽曲である。本楽曲がいかに優れているかは他に譲るとして、ここでは同楽曲において「クルマ」がいかなる意味を持っているかを考えたい。

Driving in your car
I never never want to go home
Because I haven't got one anymore

ここでは、家を追い出され帰る場所もない主人公が「あなた」の車に乗って行くあてもなくさまよう様子が伺える。

And if a double-decker bus crashes into us
To die by your side is such a heavenly way to die
And if a ten-tonne truck kills the both of us
To die by your side,well,the pleasure,the privilege is mine

そしてサビでは「二階建てバスや10トントラックに轢かれても、君の隣で死ねるならそれもいいね」と、恋愛感情と自殺願望が渦巻いている状況が歌われている。家族に絶望した少年(少女)が一方で恋人に無垢なまでの信頼を寄せている様子はとても純粋で、ある種の美しささえも感じさせる。
 さて、ここで交通事故は、家族(=現実)から逃れるためのもの、そして恋人(=夢)と永遠に一体化するものとして描かれている。つまり、ここで主人公はクルマという現実社会の象徴を劇的に破壊させることで、現実の鎖を引きちぎり、非現実の世界へと没入しようと企てているのである。
 現実=資本主義の象徴としてのクルマを根底から破壊する交通事故を神聖視するこの歌詞は、The Smithsによる資本主義の鎖を引きちぎろうとする試みと解釈することも可能なのではないか。実際にThe Smithsは労働階級出身であり、サッチャー政権によるネオリベ的政策への批判やバンド・エイドに対する批判を展開しており、自由主義的な経済政策には反対であった。とすると、資本主義の象徴=クルマの破壊(交通事故)によって資本主義に対する反抗を示す意図があったのではないか。
 しかし、交通事故という劇的なクルマへの反発もまた、資本主義・消費主義に回収されてしまう。ボードリヤールは『消費社会の神話と構造』第一部で「消費社会が交通事故を必要としている」と記している。我々は「まさしく何も起こらない場所」=日常生活のシステムの中で、現実的・社会的・歴史的な世界をできるかぎり排除することを目指している一方で、「本質的に自発的で行動的であり有効性と犠牲を旨とする社会的モラルの規範との間の矛盾」を抱えることとなる、というのである。つまり、安全で苦労の心配がない世界にいる我々は、その受動性を「罪深く」(=負い目に)感じてしまう。この負い目を取り除き、おのれの安全の選択を正当化するために、暴力と非人間性の象徴として「交通事故」が必要とされるのである。

「——交通事故、それは消費社会で最も美しい巨大なハプニングであり、消費社会は交通事故によって、モノと生命の儀式的破壊のうちにあり余る豊かさの存在を立証してみせる」(ジャン・ボードリヤール (1979)『消費社会の神話と構造』)

この一文を読んでいると、結局我々は資本主義から逃れられないのではないか、とニヒリズムに陥ってしまいそうになる。「クルマ」という資本主義の象徴による悲劇的な事件をも資本主義のシステムに呑み込まれてしまうとするならば、我々は資本主義にどう向き合えば良いのだろうか。

□保証された安全という皮肉——Radiohead / Airbag
 The Smithsが交通事故によってラディカルに現実社会からの逃避を図ろうとしていたのと対照的に、RadioheadのAirbagでは交通事故がエアバッグによって防止される様子が歌われている。

In a fast German car
I'm amazed that I survived
An airbag saved my life

だが、ここで歌われている「エアバッグが私の命を救ったんだ」というフレーズは全くの皮肉でしかない。Airbagが収録されているOK Computerのアートワークに目をやると、「飛行機が墜落した時の避難方法を伝える機内パンフレット。迷子のピクトグラム。郊外の建売り住宅。モノとヒトを効率的に運ぶモータリゼーション。ビジネスマンとがっちり握手する男」が描かれていることから分かるように、「『適応しろ、幸せになれ』とばかり企業や国家が売り歩く幸せや安全、便利さとは、実のところ恐怖を植え付けることでしかない」(田中宗一郎「OK Computer OKNOTOK 1997-2017ライナーノーツ」)ということがこの歌詞で表現されている。
 大企業や国家権力は、消費者に交通事故の危険性とエアバッグによる回避可能性を説くことで一種脅迫まがいの形で商品の購入を迫り、「安全さ」を売り歩く。この国家による「自己の安全」の強制は、イギリスにおけるシートベルトをめぐる議論でより顕在化したという。
 イギリスでシートベルトを強制する法律を作ろうとした時には、人間の自由との対比が問題となった。自分の命は自分で守る。他人、国家からそれを強制されるような、シートベルトを締めるべきという法律は、人間の自由を奪うものだとされた。シートベルトによって安全になるにしても、人には愚行権があるではないか、というものであった。ただ、子供の安全のためにはシートベルト強制もやむなし、という仕方でその法律が数年かけて通った。(斉藤了文 (2015)「自動車安全を巡る7つの哲学的問題事例」)
 今ではシートベルト装着が義務となっていることは当たり前のことだと思えるかもしれないが、「『自分の命』を『守らなければいけない』という義務は、個人の自己決定権の侵害である」という議論は確かに考えなければいけない問題である。
 シートベルトがわざわざ締めないと機能しないのと異なり、エアバッグは事故が起これば自動的に機能する。この段階になると、もはや自分の持ち物たるクルマをどのように使うかという「自らの所有物を自由に使用する権利」が完全に失われ、個人のコントロールを超えたところに存在することとなる。自己の権利は「安全」を盾に失われ、国家や企業という大きなシステムの中で、我々は飼い殺されてしまうのである。
 その意味で、Radioheadの現代社会の描き方は非常に悲観的であるが、一方で彼らは「大きなシステム」に対する批判を止めることはない。彼らの批判の中で、非常に象徴的なのが、No Surprisesにおけるグローバリゼーション批判である。一見するとそこに描かれているのは郊外の平凡な生活であるが、「皮肉さ。全くの皮肉。これ以上無理っていうくらいにね。あの曲をまんま解釈するなんて、できるわけないよ。」というトムの発言にもあるように、平凡に見える日常が一方で世界の環境破壊に加担しているというのにそれに全く気付かない、そんな中流階級一般の一種の「事なかれ主義」を皮肉っている。”I’ll take a quiet life. A handshake of carbon monoxide”というリリックにも表れているが、”No alarms and no surprises”——「平穏であれ。何も起こらないでくれ。」と希望を願う先進国に住む市民たちが、実際はプラスチックを燃やすなど環境破壊に(それもほぼ無意識的に)貢献しており、世界の平穏を破壊する一端を担っている、という残酷な真実を見事に歌い上げている。実際にこの第三世界を苦しめる「事なかれ主義」の帰結として発生したアジア通貨危機からの「リーマンショック」は、まさにこうした先進国の「事なかれ主義」が第三世界を通して翻って先進国へ影響を与えるという一種のしっぺ返しであった。結局この自分の幸せだけを追求する事なかれ主義は悲惨な結果を生んでしまったのである。
 「自分の幸せは誰かの幸せを犠牲にすることでしか成り立たない」というあまりに残酷なテーゼを直視したRadioheadだが、この現実の直視には、資本主義を乗り越える可能性が秘められている。見田宗介は、近代における資本主義システムが、発展途上国という「外部」の搾取によって存立してきたことを改めて直視し、搾取なき世界の可能性を、社会の消費化・情報化に見出している(ただ、見田宗介の議論はどちらかというと「資本主義のオルタナティブの模索」というよりは「資本主義の欠点をいかに乗り越えるか」という問題意識に立っている。)。

「情報は、自己目的的に幸福の形態として、消費のシステムに、資源収奪的でなく、他社会収奪的ではない仕方で、需要の無限空間を開く。」
(見田宗介 (1996)『現代社会の理論——情報化・消費化社会の現在と未来——』)

Radioheadに対して見田の議論は技術的進歩にポジティブな意味を見出そうとしていることが分かる。この意見の相違は情報化・消費化社会の両義性を示している。すなわち、情報化・消費化は個人の権利を縮小させる可能性がある一方で、新たな消費の可能性、需要の無限空間を切り開く可能性を秘めているということである。その意味で、Radioheadの指摘はもちろん重要であるが、一方で情報化・消費化がポジティブな可能性を秘めていると指摘して本節を締めくくりたい。

□カーセックスと資本主義——The 1975 / Love It If We Made It
 交通事故による劇的なクルマの破壊もまた資本主義の中に吸収され、エアバッグやシートベルトの義務化によって自己決定権が侵害され個人が大きなシステムの中に飼い殺されてしまうとするならば、我々は、資本主義というシステムから逃れることは出来ないのだろうか。The 1975のLove It If We Made Itは、この難問をまったく別の形で解決しようとする。

We're fucking in a car, shooting heroin
Saying controversial things just for the hell of it

冒頭からカーセックスが描写されるわけだが、これはまさしく資本主義の象徴としてのクルマに対するラディカルな形での反抗である。資本主義の象徴という意味では、理論的、経済的、公的な空間である「クルマ」に、「愛」という感情的、非論理的、個人的ありかたをぶつけることで、そもそもの資本主義対個人という対立図式そのものを無効化しようとしているように思えてくる。
 一方で同楽曲はその後、近代のもたらした失敗について、いくつかの具体例を交えつつ歌い上げる。

And we can find out the information
Access all the applications
That are hardening positions based on miscommunication
Oh, Fuck your feelings
Truth is only hearsay
We're just left to decay
Modernity has failed us

フェイクニュース、SNSの興隆、トランプ現象etc...このパートは、近代の失敗について、特に情報化の観点から捉えたものである。我々は世界中の情報を瞬時に入手できるようになり、同時に情報を簡単に発信することも可能になった。しかしながら、この情報化は、「何が真実か」を覆い隠してしまい、相互不信と社会の分断を招くことになった。見田が情報化に希望を見出したのは1990年代末のことであったが、実際の21世紀のありようを見ていると、情報化の良い側面以上に負の側面が目立っているように思う。

And poison me,daddy
I got the Jones right through my bones
Write it on a piece of stone
A beach of drowning three-year-olds
Rest in peace Lil Peep
The poetry is in the streets
Jesus save us
Modernity has failed us

次のパートでは、ドラックの過剰摂取、メンタルヘルス、自殺といった現代的な個人をめぐる不安を描いている。これまでの社会が一つの大きな理想に向かい、社会的存在として生きていたのに対して、現代社会において理想は多元的で断片化し、社会的紐帯を喪失した個人として生きねばならない。そうした中で、個人主義化は伸長し、孤独感はより一層深まる。以前のように絶対的な正解(神、理性、進歩etc...)が存在しない世の中では、どうすればよいかもわからないし、誰も教えてくれない。
 では、出口のない近代の中で、我々はたださまよい続けるしかないのか。The 1975の同曲は、そんな時代だからこそ「何かを成し遂げることは素晴らしいんだ」と歌う。近代がいくらろくでもない世界であるとしても、我々はそんな世界で生きなければならない。ニヒリズムに陥ってばかりいては淘汰されてしまう。そんなどうしようもない世界だからこそ、「何かを成し遂げること」は素晴らしいのだ。

□おわりに
 本論は、ポピュラー音楽において資本主義の象徴としてのクルマがいかに表現されているかを追うことで、彼らが資本主義をいかにして乗り越えようとしたのかを考察してきた。The SmithsはThere Is A Light That Never Goes Outで、「二階建てバスや10トントラックに轢かれても、君の隣で死ねるならそれもいいね」と交通事故によって現実の鎖を引きちぎろうとし、RadioheadはAirbagで、国家や企業が人々に「安全を強制」することで我々は大きなシステムに飼い殺されているという現実を悲観的に描き、The 1975はLove It If We Made Itで曲の冒頭から”We're fucking in a car"とカーセックスを描写することでラディカルに資本主義を乗り越えようとした。
 だが、そもそも彼らの音楽はポピュラー音楽である以上、資本主義無しでは存在することもできない。実際に彼らのメッセージをここまで考察してきたが、悲観的な結論しか導けないような気がしないでもない。つまり、結局はポピュラー音楽は資本主義に吸収され飼いならされてしまうのだと。資本主義のオルタナティブを構想することは簡単ではないのだと。
 そんな状況だからこそ、「何かを成し遂げることは素晴らしい」とThe 1975は歌い上げた。どうしようもない世の中だからこそ、そんなポジティブさが必要なのである。ドラマチックな自殺も、厭世主義的な後ろめたさも、21世紀を生き抜くためには役に立たない。必要なのは特別な何かじゃない。何をするか、何を成し遂げたかじゃない。ただ、ほんのすこしポジティブに、何かを成し遂げようとする自分を肯定してあげることなのかもしれない。The 1975の"Love It If We Made It"には、そんな微かな希望が隠されている。
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