4729 件掲載中
この数字はTwitterやFacebookでのリツイート・いいねなどの反応数を合算して算出しています。

今日も雨の中にいる

結城綾香の音楽について

 音楽文が終わると知った。最後にもう一度、何か書こうと思った。そう思った日は雨が降っていた。
 そこに雨の意志はない。

 結城綾香を最初に観たのは5年前の雨の日だった。YouTubeにアップされていた結城の『ビニール傘』を友人に教えてもらい、それを聴いた瞬間に受けた「これは何だ? 誰なんだこれは?」という衝撃は、今でも良く覚えている。
 『ビニール傘』というタイトルのその曲にはもちろん雨の光景は存在している。それ以前にタイトルがこうなので、歌詞を読む前に聴衆の頭には雨が降る。
 その後すぐにライブが赤坂であって行くことにした。そこはもう今はなくなっているライブハウスだが、その日は雨が降っていた。ライブの内容もだがその雨の光景が忘れられない。ひどい大雨だった。折りたたみ傘がぐちゃぐちゃにになっていた。
 そこに雨の意志はない。
 以前にもその時の話を音楽文に掲載して頂いた2018年の結城のライブ、この日は雨どころか台風による暴風雨だった。ぐちゃぐちゃどころの騒ぎではなかった。
 他にも結城を眼にした日が雨の日であった、ということがあった。とてもよく覚えている。
 それと雨とは関係はない。

 結城の初期の曲でもうひとつ雨のシーンが印象的なものがある。『ボストン』である。
 ボストンは確かによく雨が降る地域のようだが、ここでのボストンはそのボストンではない。1979年4月の福岡、雨の日、そこにいたボストンのことだ。

    "雨降りの夜は今日も消え去って
    ボストンは今日の雨のまま

    君にとって
    僕にとって
    どうでもいい"

           結城綾香『ボストン』

 雨に意志はない。僕にとって、君にとって、雨が降っているかどうかなどどうでもいい。

 これまでたくさんのライブを観てきた。その中で自分にとって最も重要なものは、ポール・マッカートニーの2013年「Out There」ツアーで観たライブだった。小学生の頃から散々聴いていた、レコードジャケットの感触からライナーノーツの中身、レコード盤の重さまで覚えているような曲を本人が目の前で──いや100メートル先で──歌っている。それはほとんど夢、奇跡、あるいは幻のようなものだった。
 東京ドームのライブのキャパは5万人くらいだろうか。マッカートニーのアルバムは全世界で何億枚売れているのだろう。それに対して結城が演奏する下北沢のライブハウスのキャパは数十人。CDは何枚売れたのだろう、何万枚ではないと思う。
 しかし、音楽文を読んでおられるみなさんならばきっと同意いただけると思うが、音楽の価値はそういったところにはない。結城綾香とポール・マッカートニーの作品は、自分にとっては同価値の音楽である。数人の前で歌うミュージシャンの奏でる音楽と、数十年間音楽を作り続けライブ演奏をし続け何億枚も売って何千万人もが観た音楽史上に名を遺すミュージシャンの音楽には、実は何の差もない。どちらも等しく音楽であり、音楽以外のなにものでもない。むしろ結城綾香のような音楽こそが、音楽をこの世にとどめておくためには必要なのだと思う。
 それは雨が降るかの如くである。そこには差別はない、差異もない。雨はすべての人に降り注ぐ。あなたのもとに届くのは小雨かもしれない、別の人には豪雨かもしれない、しかしそれはあくまで雨であり雨以外のなにものでもなく、雨はそれを意識的に使い分けてはいない。
 なぜならば雨に意志などはないからだ。
 音楽にも意志はない。

 これを書いている今も雨が降っている。これを書いているから雨が降っているわけではない。雨が降っているからこれを書いているわけではない。そのような意志はどちらにも存在しない。

 結城綾香の歌う『ゴールデン・スランバー』を2回聴いたことがある。どちらも途中で終わってしまったけれど。いつか聴ければよいなと思っている。
 その日はきっと雨が降る。
  • 投稿作品の情報を、当該著作者の同意なくして転載する行為は著作権侵害にあたります。著作権侵害は犯罪です。
  • 利用規約を必ずご確認ください。
  • ハートの数字はTwitterやFacebookでのリツイート・いいねなどの反応数を合算して算出しています。
音楽について書きたい、読みたい