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僕はロックを聴いていなかった

あいみょんだって同じ人間だよ

いつしか「実際的に役立つこと」ばかりを追い求めていた。「情報」ばかりを得ようとしていた。

外来語の意味を調べたり、経済学の基礎を学んだり、パソコンのスキルを高めようと思ったり、もちろん、それらは有益なことだった。そういった「学び」を通して得られた友愛といったものさえあった。それでも僕は「すぐには役立たないこと、それでも心の底に種として植わり、いつしか花を咲かせうるもの」を、いつの間にか蔑ろにするようになっていた。言い訳ばかりを用意する、退屈な初老の男になってしまっていた。

そんな自分に気付き、反省したということもあり、また「単に疲れ果ててしまった」ということもあり、童謡や詩歌といったものを、ゆっくりと時間をかけて鑑賞する、そんな日々を送ってみた(そういう「寄り道」をする機会が与えられたこと、そうした周辺環境が得られたことを、とても有り難く思っています)。

金子みすゞさんの詩を読んでいて気付かされたのだけど、草花が育つのが草花自身の「手柄」ではないように、そうした「世界の真理」に気付けるというのも、どうやら人間の「手柄」ではないようなのだ(もちろん金子みすゞさんは、もっと婉曲で詩情あふれる表現を用い、それを鑑賞者に伝えてくれるわけである。なんだかんだ言って、やはり僕という人間は「論理」でしか物ごとを考えられず、また表しもできないのだと、本文を書きすすめつつ思う)。

何はともあれ、古い詩歌を熟読することで、いかに自分が傲慢であったかに気付けたのは、紛れもない「成長」、あるいは「収穫」だったと思う。

謙虚になること。

それが実際的に(即時的に)役立つかは、もちろん分からないわけだけど。

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あいみょん。

このアーティスト名に敬称を付けるべきなのか、しばし僕は悩む。「あいみょんさん」とお呼びするのには、なんだか違和感がある。

その楽曲「君はロックを聴かない」が、もとより僕は、とても好きだった。本曲の主人公は、落ち込む誰か(恐らくはガールフレンド)に向けて、自分の知っている素晴らしい曲、ロックンロールを教えたいと願う。そこには、その「誰か」を力づけたいという使命感があり、同時に自分の感性、あるいは価値観を知ってほしいという欲望がある。ストレートで、ピュアで、人間味のある楽曲だ。

あいみょんの(楽曲の主人公の)心にあるのは、恋をしているがゆえにもたらされた「脆さ」であり、同時に「自分はロックの深みを知っているんだぜ」というような「誇り」でもあるのだろう、そう僕は解釈していた。その解釈が的外れなものではないのなら、僕もまた脆くあり、誇りを持っていると信じてもいた。「君はロックを聴かない」というナイーヴな恋歌に感情移入してしまうのは、もしかすると格好悪いことなのかもしれないと思っていたし、それでも、本曲の魅力に気付けたというのは、一介のリスナーとしての「ささやかな勲章」なのではないかと考えていたのだ。

我ながら謙虚だと思っていた。今にして思えば「自分が謙虚だ」などと思っている時点で、謙虚ではない。金子みすゞさんが、自分以外の何かに突き動かされるように、見えないものに導かれるように重要な発見をし、その「発見したこと」さえもが「誇れるというよりは感謝すべきこと」であるという、世の不思議に気付いたこと。それを見倣うべく、僕はあいみょんの楽曲を無心に聴くようになった。

***

「無心」に聴きつづけた結果、得られた感懐について述べるには、やはり僕は「論理」のようなものを使わざるを得ない。寂しいことだと思うと同時に、致し方ないことだとも思う。何しろ僕に詩人の才はないし、楽曲についてレビューを書くという行為は、完全にロジックを離れられはしないだろうと思うのだ。

楽曲「君はロックを聴かない」を歌う時、あいみょんは(恐らくは意図的に)少年に「擬態」している。演技ではないし、ストレートに直情を語るパフォーマンスでもない。本当に楽しそうに、あいみょんは「その役」になりきっている。あいみょんは楽曲「君はロックを聴かない」を生み出した、紛れもないアーティストであり、同時に、己の紡ぎ出した歌詞に身を委ねることのできる、ひとりの純粋な鑑賞者でもあるのではないだろうか。

「君はロックを聴かない」は、もう恐らくは(言葉が悪いかもしれないけど)あいみょんの手を離れてしまっているのだろう。あいみょんは、かつてこの曲を書いたことを懐かしみ、あるいは忘れかけ、歌い手としての歓びに満たされながら、その旋律と歌詞をリスナーに届けてくれているのではないか。ことによると、あいみょんは「そういう楽曲を生み出せたこと」に、感謝しさえしているのではないだろうか。僕は「あいみょんが自分自身を褒め称えている」と言いたいわけではない。「あいみょんは、どこまでも謙虚で無垢な、金子みすゞさんを彷彿させさえする詩人なのだ」と主張してみたいのである。

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僕があいみょんを聴き始めたのは、39歳になった春のことだ。己の未熟さ、至らなさを知るには、充分な歳だと思う。そして、自身の限界といったものが、何となく見えてしまう歳でもあると思う(そんなことを言ったら年長者に失礼かもしれないけど)。それでも、そういった「いい歳」になってしまいながら、依然として僕は不遜だった。自分には曲を書くことができないけど、歌詞を紡ぎ出すことができないけど、世界に溢れる楽曲の素晴らしさ、それに気付くだけの感性はあるのだと、信じて疑わなかった。

たしかに僕は、自分に対して「正直」ではあった。好きな楽曲は繰り返し聴き(時に自分でも呆れかえるくらいにリピートし)、気が向かなければヒットチャートを追うことはしなかった(時として自分でも「頑固だな」と嘆息するほどに)。本当に「いいな」と思う曲だけを愛聴して、長い月日を過ごしてきた。

それでも、その「いいな」という感懐さえ、きっと自力で得られたものではないのだろう、そんなことを今は思っている。

それなら僕に、楽曲「君はロックを聴かない」を愛させたのは一体、何なのだろうか。簡単に「きっと神様だろうな」とは言いたくない。「受け継がれてきた遺伝子」だとも断じたくはない。それは「偶然」としか称しようのない、あらゆる事物から影響を受けることにより、もたらされたものではないだろうか。「偶然」という言葉の響きは、いくぶん淡白に聴こえてしまうかもしれないけど、「運命」と呼ぶほど大それたものではないような気もする。

僕は遠回りをして、寄り道をして、時には地べたに座り込むように小休止し、空に浮かぶ雲を見上げたり、道端に咲く花を眺めたり、そんな風に生きてきた。そして必要に応じて勉強をし、いつしか勉強すること自体が目的になってしまい、小賢しくなり、理屈っぽくなり、そんな自分に気付いて恥ずかしくなり、軌道修正をはかり、そうやって年を重ねてきた。

そう、僕はある意味、ロックを聴いてなどいなかったのだ、あいみょんの楽曲を愛してなどいなかったのだ。ロックが僕をして「聴かせて」くれ、あいみょんの作品が僕に「愛させて」くれたのだ、そう思えてならない。僕という人間は、何かを選んでいるようでいて、その実、受動的な存在でしかなかったのかもしれない。それは哀しいことだろうか? それは即断できないけど、少なくとも今のところ「君はロックを聴かない」に耳を傾ける時、心は温もる。だから、それならそれでも構わないと思う。

僕はあいみょんに、あるいは「君はロックを聴かない」に、あるいはあるいは、あいみょんという人間を生み出してくれた存在に、その歩みを彩ってくれた道端の、名も知れぬ花々に「ありがとう」と呟いてみる。

その呟きは、はたして僕から発せられたものだろうか。僕は誰の(何の)おかげで「感謝」という感情に辿り着けたのだろうか。分からない。分からないからこそ、僕は人間なのだと思う。そして、きっと、あいみょんも、解けない謎を抱えながら、今日も高らかに、にこやかに歌ってくれているのだろう。

あいみょんさん。あなたも僕も、同じ人間です。
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