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コンバースを履き続けているすべての人へ

GLASGOW 1st Album『twilight films』に寄せて

ファーストアルバムで、ここまで洗練された世界を完成させることができるものなのか。
今月リリースされたばかりの GLASGOW の『twilight films』は隅々まで美しさと眩さに満ちていて、いつまでも聴いていたくなる。

GLASGOW の曲は、どの曲もただひたすらに気持ちいい。
快楽としての音楽をどこまでも追求しているかのようだ。
透明感のあるガラスのようなギターの音、重力を失わせる浮遊感のあるギターの音、奥行きのあるベースの音、散弾銃のように撃ち込まれるドラムの音、そしてそこに滑るように乗るボーカルのハイトーンボイスの現実離れした美しさ。その全部がどれもとにかく気持ちいい。

このバンドが創り出す美しさや快楽は、一体どこから来て、どうやって生まれているのだろう。
取り憑かれたように『twilight films』を繰り返し聴いているうちに、それは、何かと何かを融合させてかき混ぜていって一番綺麗な模様が出来た瞬間にカメラのシャッターをきることで生まれるようなものなのかもしれない、と思うようになった。

まず、アルバム全体の世界観としては、タイトルにも「films」という単語が入っている通り、セピア色の映画の中の世界のようだ。曲のタイトルも『シューアラクレーム』や『オレンジフィルムカーテン』など、お洒落な外国の映画のような雰囲気が漂う。
だが、曲を聴いていると、その全てが映画の中の世界の話ではなく、所々に現実が挿入されているような気がしてくる。フィクションとノンフィクションが、過去と現在が、引用と本音が、かき混ぜられて境目が曖昧になってくる。その曖昧になっていく様が、またひとつの映画のようでもあり、美しいカットを見せられているかのような感覚になる。

例えば『シューアラクレーム』では、
「私、実はずっとって話すけれど/カスタードのそれのように/二口目はいらないや」
「形なんてなくたって触れるけれど/ごめんいつかと同じように/それを綺麗と思えないや」
と、乾いた現実が歌われたかと思えば、
「ニューナンブのシリンダーは回っていた/外側から撃ち抜かれていた」
という映画のワンシーンのようなことも歌われるが、この曲の登場人物たちの中ではそれは融合した一つの世界の話なのだと違和感なく思える。映画のワンシーンのようなフレーズは、もしかしたら現実で起きていることの比喩なのかもしれないし、現実だと思っているフレーズは当事者にとってみれば映画のセリフのように空虚なものなのかもしれず、そこではフィクションとノンフィクションが交錯しているのだと思う。

また、『lightning』や『outsider』の歌詞の中に登場する「エンドロール」という言葉も、フィクションとノンフィクションの境目を示唆しているような気がした。エンドロールというのは、映画の世界はまだ続いているものの、もうすぐ現実に引き戻されることもわかっている、境目の時間だからだ。

次に、音に関しては、一人一人の音の選び方や作り方、そしてその組み合わせの絶妙さに驚かされたのはもちろんなのだが、もっと大きなところで言えば、グランジ・オルタナをドリームポップと融合させて、それを日本語のロックやポップとしても聴くことができるところまで完成させていることに感動した。

グランジ・オルタナという面では、特に ART-SCHOOL のエッセンスがうまく混ぜこまれているように感じた。サウンドは90年代のグランジ・オルタナの影響を受け、歌詞は映画や小説からの引用やそれらの世界観を彷彿とさせるものが多かった ART-SCHOOL 。その ART-SCHOOL から引き継いだものが、GLASGOW の曲の中には息づいている気がした。

例えば、ART-SCHOOL にも同名のタイトルの曲がある『斜陽』。この曲の後半のギターとベースの絡み方や、刻むベースの上で「戻らないみたい/戻らないみたい/戻らないみたいだ」と同じ言葉を3回繰り返すところなどから、ART-SCHOOL の匂いが立ちこめてくるのを感じた。
他にも、フランス語で「シュークリーム」という意味の『シューアラクレーム』という曲のタイトルからは、「青いシュークリーム」(ART-SCHOOL『ニーナの為に』)を思い出したし、『シューアラクリーム』の歌詞に出てくる「ニューオリンズの天使たちは朽ちていた」というアメリカの地名を入れ込んでくる言い回しは「アリゾナで枯れ果てた花びら」(ART-SCHOOL『乾いた花』)に繋がっている気がした。

しかし、ART-SCHOOL がグランジ・オルタナの要素や、映画や小説からの引用によって、孤独や手を伸ばしても届かないものへの思いやどうしようもなさといったものを表現していたのに対し、GLASGOW はそれとはまた違うものを描こうとしているように聴こえる。
GLASGOW は映画の中の世界に救いを求めているわけでもないし、現実の世界の中で完全に腐っているわけでもない。どちらの世界にもフラットに行き来するし、どちらの世界に対してもどこかドライだ。GLASGOW の音楽には湿っぽさがなくて、冬の朝の空気のようにどこまでも澄んでいる。どこまでも澄んでいて、美しくて、それ以外のものが消えていく。

もしかしたら、これこそが、新しい世代のバンドにとっての普通の日常なのかもしれない、とも思う。
あらゆる音楽や映画や参考文献にアクセスすることができて、引用で作られたものに多く触れてきて、あらゆる技術の習得のための動画が転がっている時代を生きている今のバンドにとって、フィクションとノンフィクションは昔よりずっとシームレスなものなのかしれないし、最初からかき混ぜられているものなのかもしれない。だからフィクションとノンフィクションのどちらにも救いを求めたりしないし、過剰な感情を寄せることもなく、そのふたつの世界を彷徨う様をフラットに描くことができるのかもしれない。

だが、そうだとしても、そのかき混ぜられているものの一番美しいところでカットをきる GLASGOW のセンスと技術は希有なものなんじゃないかと思う。ボーカルが、ハイトーンボイスと地声を縦横無尽に行き来し、フィクションとノンフィクションの段差をなくしているのも凄い技術だと思うし、ギターとベースとドラムが音色や緩急によってそれぞれのシーンの光と影を完全に操っているのも凄い。そしてその光をあてるタイミングや角度が、必ず一番美しいタイミングと角度であるということが、このバンドの美学とセンスを物語っていると思う。

それから、これは完全に個人的な思いではあるのだが、無限にも思える参考文献の中から、ART-SCHOOL やグランジ・オルタナを引用することを選んで、こんなにも美しく眩い曲の中でそれらを息づかせてくれたことに、勝手に感謝したくなる。

最後になるが、このアルバムは4曲目と5曲目の曲間が少し長い。他の曲間は5秒程なのに対し、ここだけ10秒程空いている。これはおそらく、レコードのA面とB面を意識してのことだろう。そんなところにまで、ファーストアルバムにバンドとしての美学を妥協なく詰め込んだことが伺える。

新しい世代のバンドが、数多ある過去のデータの中から、高い技術とセンスで引用と融合によって息を呑むほど美しく新しい世界をつくっていく。それをリアルタイムで目の当たりにできたことは、私にとって大きな喜びだった。
それから、ファーストアルバムからこんなにも洗練された世界を体現してしまった GLASGOW がこれからどんな音楽をつくっていくのかということにも、大きな期待を寄せてしまう。これからも「古いコンバースで走って」(※1)いってほしいし、GLASGOW が辿り着いた先できりとるカットを見続けたいと願う。
そしてコンバースを履き続けているすベての人に、GLASGOWの音楽に出会ってほしいと思う。


(※1)GLASGOW『lightning』より引用
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