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King GnuのライブはBBQ大会だった

圧倒的な熱を放ちながら躍動する巨大な絵画に心燃やされてしまった日

私が彼らの前で床に倒れてから約1年が経った。


この1年で世界は反転した。あの日はむしろ人と人が密で密で密であることが良しとされていた。その中で床に倒れ込み自分の体の上に折り重なってきた人々の重みで左足の骨がじっくりと湾曲していくという絶妙な感覚を味わう羽目になった私を彼らが思いやって今日の私の周りには右も左も前も後ろも人がいないとひとつ和やかなことでも言っておきたいところだが、残念ながらその理由はただただ深刻なものである。ちなみにあの日渦の底から人間達を見上げる私を振り返り一瞥しながらもそのまま何も見なかったかのように前を向き彼らに向かい腕を振り上げていた女の冷酷な顔はまだ忘れていないし、斜め後ろから「大丈夫!?」と身体を引き上げてくれた青年の真摯で誠実な声はまだ覚えている。

同じアルバムを3枚買うという人生初の暴挙を成し遂げ手にしたチケットは水泡と化し、全ての感情を殺し虚無という感情に支配されたまま過ごしていたところに突然舞い込んできた一報。迷いを抱えたまま申し込んだ会場は隣県ではなくなぜか新幹線で県境を越えに越えて向かわないといけない場所であったことから私が正常な判断能力を完全に失っていたことをうかがい知ることができる。このご時世の中、週の合間の2日間に「私用」で有休申請した私を上司はどう思っただろうか。「実は常田さんに12月1日に名古屋で会いたいと言われまして・・・」と土曜の昼のラーメン屋で夫のどんぶりに自分のチャーシューを2枚ともそっと放り込みながら告げた私を見る夫の表情は到底言葉では表現しきれないものであったのでここでは割愛する。

そんな形で全ての感情を押し殺し事実を隠蔽したまま今日ここにやって来たため、実感というものが皆無なのである。首をあげると嫌でも視界のど真ん中に入ってくる巨大なロゴがこれから誰がこのステージに出てくるのかをご丁寧に教えてくれているはずなのに、本当に何の実感もない。分散入場により開演1時間前には着席した。1人だ。何もすることがない。会場では1964年の東京オリンピックのものであろう実況音声が延々と流れ続けている。異常事態である。一体何を聞かされているのだろうか。ここに何をしに来たのだろうか。それもまたこの実感のなさを大いに助長してくれた。マラソンランナーは515万回ほどゴールを繰り返し、何かの選手が515万回金メダルを獲得した。それくらい途方もなく長い時間に感じられた。

会場がゆっくりと暗転し、累計515万回は聴いたであろうあの音が地を這うようにじっくりと流れ出す。その悔しいほどに堂々と静かに雄々しく猛々しい音と共に4人の人間達が左側から歩みを進めている様はやはり王者の行進にすら見えてしまう。彼らを目の前にするのは数学的には2回目なのだろうが、きっと本質的には1回目なのだと確信した。ほの暗い自分の視界に彼らが完全に収まった時、心底恐ろしかった。完璧な真正面だった。清々しいくらいに視界は全て彼らで埋まった。私にしか見えないこの世界に、彼らは一体何を描いてしまうのか。「ナゴヤーー!!」という地の底から這いずり出る様な絶叫はもはや「ナゴヤ」という言葉には聞こえなかった。何か新しい言語のようにすら思えた。

真っ白な光が暗闇を拳で突き破るようにしてどかんとこちらに向かってきた時、私の世界に4人の姿が鮮明に描かれてしまった。ただ一つ頭に浮かんだ言葉は「実在―――――!!!」だった。もうそれしかない。もはや脳内でひとつずつ「実在」を増やしていく「ひとり実在ゲーム」の開始である。「実在。実在実在。実在実在実在。実在実在実在実在。実在実在実在実在実在。」もう本当にこれしか考えられなかった。ベルリンの壁が崩壊していくかのごとく、私の中で彼らと自分との間に存在していた「実在」という壁が崩壊していく。対象に巨大な憧れや尊敬や好意を抱き対象を画面越しに眺める日々を送っているとその想いは思いもよらない方向へと熟成され、脳内で勝手に「そもそもこの世に存在していないもの」であると位置付けてしまう。これぞ超限界オタクの限界脳が織り成す世にも恐ろしい技である。よい子であってもよい子でなくても決して誰も真似しないでほしい。「実在・・・実在していた・・・実在している・・・そうか・・・実在・・・」と脳内でうわ言のように呟き続けている間に"どろん"は終わった。

立て続けに音が鳴り響き「あっやばいこの曲は」と動揺しているとあっという間に私が今現在この世で一番聴きたい咆哮が聴こえ一瞬にして情緒ががらがらと崩れ死にゆくのを感じた。私はこの曲が終わるまでに何度情緒の死を遂げなければならないのだろう。1年前は頭上から降り注ぐカラオケ隊の歌声を脳内でノイズキャンセリングし必死に対象の声に耳を傾け意識を全集中させてやっと聴こえるものだったそれを「発声禁止」という場で存分に余すところなく享受する。「禁止」と「許可」の相関関係とは趣深いものである。発声を「禁止」されることでこの咆哮を存分に享受することが「許可」されるのならそれも悪くない。手放すことでしか得られないものがあるのだと大いに実感した。私がひたすら情緒の死を遂げている間に"Sorrows"は終わっていた。

その音がじんわりと流れ出した時点でもう彼らは我々のことを火あぶりの刑または燻製にでもしようとしているのだろうかと耳を疑った。ただでさえかろうじて意識を保っている状態である。そこにギターソロだとは到底思えないギターソロが刺し込まれる。演奏などという生ぬるいものではない、この時私は彼に何かで臓物を串刺しにされてしまったような気すらした。今まで他のアーティストの様々なライブに行って「ギターを弾いている」と思ったことはあった。しかしこの時は「ギターを弾いている」とは思えなかった。それはもはや彼の身体の一部であるかのように見えた。その音はギターから間接的に出る音ではなく、彼自身の内側から直接放たれる叫びそのものだと思えた。それは「言葉」という形になっていないからこそ凄まじい熱と威力を秘めていて、うねりにうねったまま私の臓物に深く突き刺さった。あまりの衝撃にもう何も考えられなかった。ああ、こういう人が「音楽家」と名乗れるんだろうなぁと遠のく意識の中感覚的に思っていると"Vinyl"も終わっていた。

更なる音が聴こえ少しだけ安堵した自分がいた。2枚目のアルバムのアルバム曲。ここまでに鳴らされた曲とは明らかに違う温度感であるはずだ。よかった、少し気持ちを落ち着けられる。しかしその安堵は全く無意味なものだったと即座に思い知らされる。ボーカル井口から放たれるメロウな歌声、ベース新井から放たれるアンニュイなベースライン、ドラム勢喜から放たれるダンサブルなビート、そしてギターを通して放たれる常田の軽やかでありつつも重たく燻ったメロディー。この曲で熱を冷ますはずだったのになぜだろう、全く熱が下がっていかないのである。かと言って上がっていくわけでもない。むしろその熱は一定の温度を保っていた。ジーーッと続いているように感じられた。おそらく、温度を上げるよりも下げるのも実は簡単で「一定の温度を持続させる」のが最も難しいことなのではないかと思い知らされた。それを目の前で完璧にやってのける彼らの底知れぬ、想像を絶する「地力」のようなものを思い知らされながら"It’s a small world"は終わった。

驚いたのはこの曲に入った瞬間だった。押しても引いても揺るがぬ、誰もが認める彼らの大ヒットソング。彼らが今の立ち位置に至ることになった確実なターニングポイントである事実は誰も疑うことのない事実であるはずなのに不思議だ、この曲が鳴った時に一切自分の気持ちが盛り上がらなかった。そう言うと語弊があるかもしれないが、事実としてはこうだ。「既にこれ以上ないくらい熱しきっている」から一切盛り上がらないのだ。これ以上盛り上がりようがない。普通ならライブの中でヒットソングが鳴った時、少なからず場の空気感や人々の感情が昂るはずであり、それを成し遂げることこそがこれらの担う責務であるとすら思う。しかしどうだろう。この曲はきっとそのような責務は最初から担わされていない。曲中にあるようにまさに彼らの放つ音楽は全て《地続き》であるのだとこの時感じた。前曲は2年前のアルバムのアルバム曲である。それなのにどうだろう、この曲と何か「差」があっただろうか。彼らの鳴らす音にはきっと本質的に起伏も強弱もない。常に一定の圧倒的な熱と感情がそこに横たわっている。だからだ。それこそが彼らの圧倒的な強みであり、そこに人々は知らず知らずの内に強烈に引き付けられ熱が伝導していくのだと気づかされている内に"白日"は終わった。

"飛行艇"も本来ならメンタルブチアゲ激アツ湯沸かしソングくらいの立ち位置のはずなのだが、ライブのこの流れの中で聴くこの曲は「特別な熱を感じなかった」と言える。その理由は決してネガティブなものではなく前述の通りだ。熱いのは熱いのだけど、ただもう限界まで熱いので熱さを感じないというだけである。続く"Overflow"は最新アルバム『CEREMONY』のアルバム曲だがこれも"飛行艇"と何の差も感じなかった。単にこの曲がライブ化けしているのか?とも思ったがきっとそれは違う。どちらが上がったどちらが下がったの議論ではなく答えは「どちらも凄まじく上がっている」のだと思った。

突如、目の前の景色が深紅に染まる。不穏な音が這うようにやってくる。その中で彼がギターを降ろす様は何か美しい絵画を眺めているかのように思えた。トラメガをスタンドから引き離す光景は力強い彫刻を目の当たりにしているかのようだった。それらが私の目に映った瞬間「これが芸術というものなのかもしれない」と思ったのは事実だ。聴衆に背を向け、凄まじい咆哮をあげるその人物を眺めながら「うわ~こういう人が『王様』になるんだろうなあ~」と何かの物語を読んだ後の幼稚園児のように純粋に割と本気で思ってしまった。目の前で繰り広げられる堂々たる闊歩と全てをさらけ出すあまりの激情に、これ以上揺さぶられるものはないというくらい肉体と精神の全てが揺さぶられた。それなのになぜか心の最深部は穏やかに凪いでいたような気すらする。私の心の内で何らかの防衛反応が働いたのだろうか。王がステージのど真ん中に立ちトラメガをこちらへ向けてきた瞬間、「うわ~トラメガって真正面から見たらこんなに綺麗な二重丸なんだなあ~すごいなあ~まん丸だあ~」と思ったくらいである。もう、トラメガを真正面から向けられたあの瞬間、凄まじいエネルギーを直接注入されたのだと思う。情熱を直接注射されたかのような。人々の士気を高めモチベーションを向上させ幸せの礎を築くことができるのが「王様」だとしたら、間違いなく彼は単体でも「王様」であり彼を含めたバンドそのものも「王様」である。これはもはや音楽などではなく一人の人間の生きざまを見せつけてくる一つの「劇」だと思った。それが"Slumberland"だった。

その直後、いよいよ気を失いかけた。「知らない曲」なのだ。生で突然「知らない曲」を聴かされるなんて狂気の沙汰である。本当に勘弁してほしい。それまで深紅の中を自由自在に闊歩していた王は何事もなかったかのように静かに鍵盤の前に腰かけ、心の琴線を滑らかにはじいてくるような美しいメロディーを紡ぎ出す。王は歌い出し、そこに井口のイノセントな歌声が重なる。その儚いシャボン玉の様なメロディーを壊さずして底から引き立てるように新井と勢喜から生み出される穏やかに燻ったビート。あまりの美しさに気を失いそうになった。「やばいどうしよう知らない曲だ全然知らないんだけど何これ知らない曲だ何これ」と心の内で唱えながら正気を保つことに必死で、そうして呪文を必死に唱えている内に"Vivid Red"は終わった。

そこから入る"Hitman"もじっと確かな熱を放っていた。もはや曲のテンポだとかそういう数字で測れるようなものは彼らの「熱」には何の関係もないのだと悟った。王はギターを鍵盤に変えることで、また異なる色彩を放ってくる。色がついているのは間違いなく照明なのだけど、もはやこの頃には彼らがそれぞれ放つ音にすら色がついている気がした。続く"The hole"で驚いたのは勢喜のドラムプレイの激しさである。この曲はどちらかというと静かで穏やかな曲であると思っていたがこの時改めて悟った。結局どの曲であっても同じ量だけの「熱」であったり「激情」を秘めているのだと。勢喜のドラムの叩き方は少なくともこの日私が見ていた中では最も激しかったように見えた。あまりの激しい叩きっぷりにシンバルがたわんで歪んでそのままものすごい勢いでふっ飛びそうだと不安になるくらいだった。彼のプレイスタイルににはダンスの影響が色濃く反映されているようだが、この場面を眺めながらなんとなくそれが分かった気がした。秘めたる「感情」がダイレクトに伝わってくるのを感じた。

それまでの「動く美術品」とも言えるような美しい光景をぶった切るかのように、とんでもなく人間味あふれるMCが挟み込まれる。「除菌してるかーー!!」という掛け声と共にジャンジャンジャンとお茶目に力の限り鳴らされるシンバルがつい先ほど聴いたあの凄まじく激情的な音を出していたシンバルと同じだとは到底思えなかった。このような二面性というかギャップというか、そんな所が彼らの魅力のひとつなんだよなと改めて思い知らされる。

そんな茶目っ気たっぷりのMCを経てからの"ユーモア"も不思議なほど確かな熱をもっていた。一度極限まで熱されたものは簡単には冷めない。切り替えの潔さというか、持続力というか、彼らのそういう部分は本当に底知れないものがあるなと思った。"傘"に入る頃には私はもう文字通り《ハイ》になっていた。正直もうあまり記憶もないくらいの《ハイ》っぷりだった。完全に彼らの全てに酔いしれていた。声が出せないフラストレーションは体で表現して発散するしかない。腕はあがり、身体は揺れる。"Tokyo Rendez-Vous"では揺れながら近寄ってくる常田と新井に熱狂し、その後2人が向かい合い情熱と情熱をぶつけ合うあまりにも泥臭く熱すぎるパフォーマンスが目の前で繰り広げられた時には割と真剣に卒倒しかけた。そこからの"破裂"と"Prayer X"に至ってはもう正直に言ってしまえば前述した2人のパフォーマンスでバキバキにブチアガりすぎて何の記憶もない。"破裂"から"Prayer X"へ地続きで繋がっていったことを後日Twitterで知ったし何なら「"Prayer X"ってあの日演奏してましたっけ・・・??」と思ったくらいである。人間の記憶のシステムと情緒を簡単に破壊してくるKing Gnu、誠に恐ろしい存在である。

『あと2曲――!!』という井口の煽りから入った"ロウラヴ"も嘘は書けないので正直に言うと本当に記憶がない。私の情緒は立ち上がることを諦めたらしい。本編ラストの"Flash!!!"に至っては「死ぬほど照明がチカチカしていてポリゴンショックを思い出した」以外の感想は特にない。とにかくこの嘘偽りのない正直な供述から「もう何の記憶もなくなるくらいKing Gnuにブチアゲられてしまった」という圧倒的事実だけが伝われば幸いである。

残像も残さないくらいの勢いで素早く常田がはけ、残りのメンバーも足早にステージを去る。いつもなら「もう本編終わりかぁ」くらいのことをのんびりと思う余裕もあるものだがこの時もう私には何の余裕もなかった。まるで10kmランニングした後のようなコンディションである。立ち位置から一歩も動いていないのに全身が熱い。へなへなとイスに座り込み水分を補給する。ここで初めて自分のマスクが自らの熱狂により尋常でなく蒸れていることに気づき驚いた。結露しそうな勢いで蒸れていた。「マスク 蒸れ太郎」の爆誕である。あしたのジョーよろしくイスに座りうなだれながら、この日1度も使うことのなかった足元のメガホンを手に取り片手で軽く打ち叩く。驚いた。便利だ。便利すぎる。少なくともこの時完全なるあしたのジョー状態であった私には両手で手拍子をする力すら残っていなかった。完全に満身創痍だった。しかし彼らにまだ彼らを待ち望んでいることを伝えたい。そんな時、メガホンを使えば少ない力でいとも簡単に音を鳴らすことができる。こんなに便利なものを私は知らない。今後の人生でここまでメガホンの便利さを痛感する瞬間はきっと訪れないだろう。

また会場がゆっくりと暗転していき、累計515万回は聴いたであろうどこか物悲しいあの音が満身創痍でひび割れた身体の隙間から流れ込んでくる。まだ、まだかましてくるつもりなのだ。王が再び姿を現すことを「怖い」とすら思った。もちろん自分も呼んだ。呼び戻した。しかしもうこちらは満身創痍なのだ。いつもなら「もう終わっちゃうの」とかわいこぶったことを思ったりすることもあるがこの時は「もうこれ以上は無理ですもう十分ですもうお腹いっぱいですこれ以上食べられません勘弁してくださいお願いします」と思ってしまうくらいの圧倒的満身創痍感に満たされていた。

そこから始まった"三文小説"は翌日の12/2にリリースを控えた正真正銘の最新曲だったわけだが、この曲によって私はまたKing Gnuの末恐ろしさを思い知らされ、ここまでの彼らの様子から得ていた「King Gnuはもはや芸術作品である」というふんわりとした感覚に完全なるダメ押しをくらうことになる。新井と勢喜の奏でる確実な鼓動を柱にして、井口の声が地の底からそこを伝い天上へと向かっているように思えた。そしてそれらの全ての根底にあるのは常田の次元を超えた才能だと感じた。そうして生み出される光景は「音楽」ではなくもはや「芸術」だと思えた。私の目に見える世界はこの時「芸術」となった。サビに入ると常田は鍵盤の低音と高音を交互に行き来する。その時鍵盤に向き合う彼の姿はもう「音楽家」と形容できるものではなかった。「音楽」という枠を超え「芸術」を丸ごと体現しているように思えた。凄まじい表情で鍵盤を叩き、何かを引きちぎるように両腕を激しく後ろへ振り払う。その動きの激しさでもはや彼の身体は一瞬浮き上がっているように見えた。座っているイスは彼が両腕を振り払うたびに後ろ斜め45度くらいに傾き、彼の指が鍵盤に戻るたびに元の状態に戻ることを繰り返していた。そのイスの動きすら芸術的だと思えた。なぜイスが倒れないのか心底不思議だった。ゴムバンドで固定しているのだろうか。CGで作られた映像を見ているようだった。これが今自分の目の前で現実に巻き起こっていることだと思えないくらい意識が飛ばされた。目の前で動く巨大な絵画を見ているようだった。身震いした。あてのない恐ろしさすら感じた。今世界に巻き起こっているこの渦は、向き合い方によっては己を滅するような結果をも招き得る。しかし彼らは完全に味方にしたのだと、うまくこの渦を乗りこなしたのだと、ここで確信した。このバンドにはどんな逆境ももはや逆境だと思わず真正面から飲み込み昇華する本物の「強さ」があると思い知らされた。

そこから"Teenager Forever"が鳴る頃にはもう完全に全てがどうでもよくなっていた。全てが吹っ飛んでいた。自分で自分の様子は見られないのでよくわからないが、きっともうそれはものすごい顔をしながらものすごい動きで「ティンティンティンティン」とブチアガっていたことだと思う。自分でそれを目にしてしまった日には一生拭えないトラウマと化すくらいの動きをしているんだろうな、そんなささやかな羞恥心にすら襲われるくらいの狂乱っぷりだった、と思われる。

耳をつんざく残響音の中、何もかもが終わった。一糸乱れず響くその音は「to be continued」というメッセージに聴こえた。ただただ熱かった。私は彼らにすっかり熱されていた。暖められたでも、燃やされたでも、焦がされたでもない。ただただじっくりとじっくりと身体の芯から、精神の核から熱されてしまったという体感があった。一体何がこの熱さを生むのだろうと思った。

彼らの姿はまるで「炭」のようだった。

インタビューでのベース新井の発言を思い出した。『でもそういう消費のされ方ってなんかガソリン注いでるだけというか、焚火で言うと新聞紙が燃えてるみたいな。すぐ燃えるし派手に燃えるんですけど、その後は黒い灰が舞っちゃって何も残らない。』というのは自分たちの音楽の消費のされ方に対する発言だった。おそらく彼らは一瞬の「炎」を求めているのではなく、持続する「熱」を求めているのではないだろうか。確かに「炎」は目に見えて燃える、大きく目立つ、勢いもある。木材や紙や植物に火を点けるのは簡単だ。近づけるだけで簡単に燃えていく。ただ、それは燃やす対象がなくなれば一瞬で消える。そして何も残らない。しかし「熱」は違う。それは目に見えることもなく、大きく目立つわけでもなく、勢いがあるわけでもない。炭に火を近づけるだけでは火は点かない。火を入れなければならない。それは簡単なことではない。まず熱源があること、それに絶え間なく風を送り続け熱を移すこと、その熱が炭から炭へ次々に広がっていくこと、そういった確実なプロセスの先に生まれるのが持続する「熱」なのである。それは常田大希という熱源の周りを取り巻き共鳴し常に新たな息吹を送り続ける「King Gnu」「millennium parade」「PERIMETRON」という集団が存在するからこそ、常田大希とそのそれぞれの集団が圧倒的な熱を帯びていられるということそのものだと思えた。一人一人が熱を放つから、集団はより一層熱を帯びる。

彼らの楽曲は、一般的には「イケてる音楽」のようなライトなものとして認識されているのかもしれない。しかし実際の所そんなものは掃いて捨てるほど転がっている。盛り上がって燃え上がるだけなら簡単だ。簡単に付け外しできるアクセサリーのような表面的な音楽、つけている時は気分があがるがひとたび外してしまえば存在すら忘れてしまう一過性の音楽、他人に見せ評価を得ることが目的となり自己の欲求の投影が果たされていない血の通わぬ音楽。それらは決して人々の心に長くは残らない。刻まれない。今回初めて彼らとじっくり対峙してわかった。彼らの真髄は表面的なものではなく、深部にある。彼らの心の深部が、心のど真ん中が、揺るぎない熱を放っているからその熱は人々に伝導していく。それこそが彼らの音楽が多くの人々の心の中心部を熱し引き付けて離さない理由なのだと思う。

こんなにも真っ直ぐな「熱」を放つ人達と正面から向き合って、自分に熱が移らないわけがない。あまりにも大袈裟すぎる話だが、今の私は「常田大希に恥じることのない人生を送りたい」くらいのあまりにもクソデカな感情を抱えて生きている。どうか笑って欲しい。あんなに真っ直ぐな「熱」に初めて触れた。もはやあれは熱を放ちながら躍動する絵画だった。初めて触れた新たな「芸術」のジャンルだった。自分の中の何もかもが熱され、今まで築いてきた価値観すら変わっていく感覚があった。ライブでここまで急性的な自己の変化を感じたのは初めてだった。そんなことをやってのける彼らはきっと火の入った炭のように心がじっくりと熱く燃えている。それは奇遇にも今爆発的なブームを巻き起こしているあの作品のあのフレーズを体現しているような気がして、そういえばあの主人公の名前には「炭」という文字が入っていたなぁなどという妄想に駆られてしまう始末である。


しかし、あまりにも人をじっくりと熱して心酔させてしまう彼らは困りものだ。


そのおかげで私はあの日新幹線で降り立った現地で購入しカバンの中で彼らの生音を浴びることになったどこかの誰かの20枚目のアルバムを、まだ1周しか聴いていないのだから。


※文章中の『』内の発言は MUSICA 2020年12月号より引用
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