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愛してる

ヨルシカ『春泥棒』で思い出した、どうしようもなく淋しい季節

その時、生まれて初めてこの光景を言葉にするのが「億劫」だと思った。
一面に桜が咲き、老いて命の短い猫が私の母に抱かれ、私は写真を撮っている。

「いくよ、ほら、こっち向いて」

母に抱きかかえられた猫はやせ細った顔をこちらに向けた。私はその姿と、桜の花びらとを同じ画角に収め、写真を撮った。



ヨルシカ『春泥棒』を聴いた時、思い出したのは亡き猫との最後の思い出だった。
20年前に拾った猫だった。亡くなるまで、苦しい時も幸せな時も一緒にいた。私が体調を崩して枕を濡らす夜を過ごしていた時、何も言わず傍にいてくれたのが猫だった。言葉を交わさずとも、何かが伝わっていたのだろう。悲しみの底にいた私は、猫の柔らかい毛を撫でて、毛布のように抱きしめて日々を過ごした。
猫は老いていくにつれて、元々腎臓を悪くしていたのが進行していき、医者は余命こそ告げなかったものの、私たち家族はもうそんなに長くないことを悟っていた。懸命に介護をする毎日。死の気配はゆっくりと、春先を迎えると色濃くなっていった。

「ねえ、今日は猫を連れて桜の咲いている場所に行こうよ」

思いつきで言った私の提案は、すぐに母に受け入れられた。今になって母は「あの時はどこか、行かなければ後悔すると思ったんだよね」と話す。お互いに少し神妙な、少しこわばった顔つきをしていたと思う。
猫を抱き、自転車を引きながら近くの緑道へ行った。ちょうど桜は満開で、西日に照らされて優しい色を湛えていた。

「写真を撮ろう」

そして、猫と母の写真を撮った。さらさらと桜の揺れる音がかすかに聴こえる中、私は「ああ、億劫だなあ」と思った。この、今目の前に広がっている光景の美しさを、かけがえのない、二度と戻らないと思う瞬間を、言葉になど出来ないと心の底からわきあがるように感じ、唇をかみしめた。

「はらり、僕らもう息も忘れて
瞬きさえ億劫」

舞い上がるように歌われる『春泥棒』の言葉を聴いて、私はあの日の桜が今も瞼の裏に焼きついているのだと感じた。この曲のミュージックビデオでは夜にぼんやりと光る桜の大木が映るシーンがあるが、同じように、今は枯れ木でしかない桜の木に、花びらが溢れている幻を見た。あの時の桜だ、と私は瞬間的に気づいた。
あの日、あの場所で見た桜を、ヨルシカが歌ってくれている。

感動した事柄について何でも言葉にして伝えるくせがあるせいで、めったなことでは静かにならない私が、あまりの桜の美しさと、もうすぐこの世界から消えてしまうであろう猫と、その猫を慈しむ母という絵に、胸が震え、手放したくないともがき、そして躊躇いもせずに音も無く泣いた。泣きながら、億劫だ、本当に今はとても億劫だと繰り返し思った。

瞬きさえ、億劫だ。

「そろそろ、帰ろうか」

吹く風が冷たくなってきた。母が言う。もう少しいさせて、と私が言う。
涙が止まらなかった。『春泥棒』を最初に聴いた時、同じ感情が私を激しくも優しく包んだ。

春とは、なんて淋しい季節なのだろう。桜は、どうしてこんなに美しいんだろう。

ヨルシカの音楽の中で生きる季節たちは、いつでもすぐ走り去っていってしまう。手を伸ばしたら、もういなくなっている。桜の花びらも、掴もうとすると掌からこぼれ落ちている。
夏も、春も、彼らの音楽の中では刹那の子どもだ。子どもになってそこらじゅうを駆け、つややかな髪をばらばらに散らせながら、こちらを見て微笑む。

一瞬に生きるからこそ生き物も季節も等しく美しいのだけれど、私はそこから動けなかった。いつまでもそこに、私を全身全霊で愛してくれた猫と一緒にいたかった。その手を取りたかった。逝かないで、と言いたかった。
それでも、私の愛した小さな命の灯は、それから数日後に消えてしまった。

桜の下で撮った写真は、遺影となって今も机の上に飾ってある。
そうして、私は春が来る前の今、ヨルシカの『春泥棒』を聴いたのだ。

ああ、これは、私の中の「春」だ。
切なくて、ひどくて、悲しくて、淋しくて――それでもあたたかい。

「名残るように時間が散っていく」
「花開いた今を言葉如きが語れるものか」

時間を名残惜しいと思ったのも、あの瞬間を言葉なんかでは表せないと思ったのも、全部ヨルシカが歌ってくれている。その声の薄青い空に似た、澄んだ色もあの日に見た空と同じ。猫の身体に触れた時の温もりも、ひんやりした耳も、窪んだ瞳に映った桜の花びらも、全部忘れたくないと思ってしまっておいた。ミュージックビデオで<彼女>がそうしたように、心の中のペンケースを開ける。そこには何度も使い古した私の記憶を象るためのものが入っていた。私はその中から鉛筆を取り出し、言葉を書き記し始める。

猫のことを、本当に心から愛していたこと。
桜がきれいだったこと。
これからやって来る別れを予感して泣きじゃくったこと。

全部、ヨルシカがもう一度思い出させてくれた。
書いてみて、もう一度。そう、私にペンケースを差し出してくれた。

「散るなまだ、春吹雪」

あの時、強く願ったことが言葉になる。
春という季節を淋しいと思ったのは初めてだった。この感情も、言葉にしたい。

「どれだけ春に会えるだろう」

私をじっと見つめていた瞳が映したのは、最後の春だった。
私はあとどれだけの春を、桜を、人生で迎えられるだろうか。

言葉が溢れて止まらない、ノートはすぐいっぱいになった。桜の幻は見え続けている。着実に、花びらは散っていく。この桜にも終わりがある。夢にも終わりがあるように、私の見ているこの桜も、記憶も、いつかまた元通りに閉じなければいけない。

でもどうか、『春泥棒』を聴いている間だけは、咲き綻んでいてほしい。
今はもういない、私の愛した生き物に、この歌を一緒に聴いてほしい。瞼を細めて、風に身体を預けるように。


――桜はなぜこんなに美しいのか。

いちど、梶井基次郎の小説で読んだことがある。桜は美しさの均衡を保つために、木の下に死体を埋めているのだと。道理が叶っていると思った。そう考えでもしないと到底、桜という存在の美しさがどんな風に成り立っているのか証明できない。

ものや事象の美しさや儚さを証明<表現>することは難しい。多くは実体を掴めないまま、感情の赴くままに書きなぐってしまい、表現物として成り立たないからだ。

ヨルシカは私の中に眠っていた「春という季節が抱く儚さ」を言葉にしてくれた。心に埋まったどうしようもない悲しさとやるせなさを掬い上げてくれた。今まで漠然と、猫との思い出を抱きしめたまま「淋しい」と思っていた気持ちがすっと腑に落ちるような感覚を、『春泥棒』を聴いて感じた。人の心を<攫う>歌、という意味で、このタイトルは何よりも雄弁なのかもしれない。

猫と過ごした美しい光景を美しいままに思い出させてくれ、その時感じていた悲しみまでも包み込んでくれる音楽に出会えたこと――こればかりは生きる歓びと言わざるをえない。生きているから巡り合えた、光に翳せばかがやく宝物だ。
猫が亡くなってもうすぐ1年が経とうとし、また春がやって来るというこの時に触れることが出来た、というのも、どこか縁のようなものを感じている。春がやって来て、花が二つだけになり、最後には一つだけになる。私は今年もその終わりを見届け、心が締めつけられる淋しさをふたたび感じるだろう。けれど、ヨルシカが歌い上げた春の一瞬を駆ける曲を聴いて、本当に季節というものは一瞬だ、とぼんやり青い空を見上げ、猫がまどろんでいる姿を瞼に浮かべ、あの時確かに交わした愛に満たされたいと思う。

愛してる。

最後にこの言葉をノートに書く。何よりも、誰よりも、私はあの瞬間を愛していた。
ヨルシカの言葉と音楽は、私にひとつしかない春を思い出させてくれた。

このひとつきりの春を忘れない。どうしようもなく淋しくて、愛おしかった季節を。


講評
自身の経験と、ヨルシカの“春泥棒”を重ね合わせた、美しい文章。ヨルシカの楽曲が鮮やかで文学的であることが、筆者のフィルターを通して表現されています。桜、猫、家族との会話などをちりばめることで、色や温度や匂い、触感も見えるような臨場感を生み出しているところも秀逸。心の中に眠っている思い出を呼び起こすヨルシカの楽曲の力を、多くの読者に伝えてくれました。
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