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『 ひとりごとの終助詞 』

—志村正彦の「な」—

 日本語で会話をするとき、私たちは発言の語尾を変化させることによって、自分の伝えようとするところを微妙に調節しながら、相手とのコミュニケーションを図っている。特にわかりやすいのが「終助詞」と呼ばれるもので、それは発言の最後に付随する「よ」や「ね」のことである。

 終助詞にはそれぞれ異なる用法がある。たとえば「よ」には相手に何かを知らせる働きがあり、「ね」は同意したり確認したりする役割を持つ。「このバンドいいよ」「ホントだ、かっこいいね」といったぐあいに。こうした文末表現には他にも「ぜ」「ぞ」「わ」などが挙げられる。
 人と人とのやりとりが円滑に進むのも、時にはぎくしゃくしたりするのも、この「終助詞」というたった一音節の文末表現によるところが大きい。日本語のおもしろくて難しいところだ。


 フジファブリックの「若者のすべて」は、志村正彦の代表曲のひとつだ。彼のいない今もバンドによって歌われ続けているこの曲は、数々のミュージシャンによってカバーされてもいて、現在もなお多くの人々に親しまれている。
 文末表現という視点からこの曲に着目してみると、繰り返し歌われるこの一節には、ある終助詞が印象的に使われていることに気が付く。


 《最後の花火に今年もなったな
  何年経っても思い出してしまうな

  ないかな ないよな きっとね いないよな
  会ったら言えるかな まぶた閉じて浮かべているよ》


 このように、ほとんどすべての語尾に「な」という言葉がついているのだ。では、先の通り終助詞がそれぞれ異なる役割を持つとするなら、いったい「な」にはどのような用法があるのだろうか。


 それは「ひとりごと」である。
 「若者のすべて」の「僕」は、《最後の花火に今年もなったな》とつぶやき、《何年経っても思い出してしまうな》と、かすかな感傷をにじませる。そして、《ないかな》と期待しながらも《ないよな》とそれを否定したあと、《会ったら言えるかな》とまぶたを閉じる。そこに描かれているのは、淡い期待と逡巡のあいだで揺れる心の機微であり、それは他者とのコミュニケーションではなく、すべて自分のなかで完結しているものなのだ。
 したがって、「よ」や「ね」が「会話」において役割を果たすものであるのに対し、「な」は語りかける相手を必要としないのだということがわかる。つまり「な」とは、「ひとりごとの終助詞」であるということだ。

 「若者のすべて」が内省的な心情を克明に描写しているのは、やはりそこに歌われたいくつもの独白を繋いでいく「終助詞」の果たすところが非常に大きい。
 すなわち、この曲は「な」というたった一音節によって、「ひとりごとを歌う」という確たる世界観を成立させているのだ。


 ところで、志村正彦の作品のなかで、終助詞「な」が重要な働きをもつ楽曲がもうひとつある。それは、バンド最初期の作品である「茜色の夕日」だ。


  《僕じゃきっとできないな できないな
   本音を言うこともできないな できないな
   無責任でいいな ラララ
   そんなことを思ってしまった
  (しまった しまった)

   君のその小さな目から
   大粒の涙が溢れてきたんだ
   忘れることはできないな
   そんなことを思っていたんだ
   東京の空の星は
   見えないと聞かされていたけど
   見えないこともないんだな
   そんなことを思っていたんだ》


 この曲における「な」も、「若者のすべて」と同じように「独白」という決定的な特徴を作品に与えている。
 これら二曲に共通しているのは、人に言うのがはばかられるような「心によぎってしまったこと」を音楽として歌っているということだ。
 だから、こうして考えてみると、志村正彦の音楽の根源には常に、「ひとりごとを歌う」という命題があったのではないかと思わずにはいられない。


 「茜色の夕日」が、特定の出来事への感傷を歌ったと思しき「個人的」な色合いを強く持つ一方で、「若者のすべて」は多くのミュージシャンによって歌われていることが示しているように、より「普遍的」な世界観をたたえている。
 それは、《夕方5時のチャイム》が響き、《街灯の明かりがまた 一つ点いて》と歌われているように、この曲には継時的なストーリー性が顕著であるというのも一因かもしれない。

 しかし、「若者のすべて」に描かれる「ひとりごと」という、孤独な心象の原風景が聴くものの心を打つのは何よりも、その物語の終盤に《すりむいたまま 僕はそっと 歩き出して》という、「ひとりごと」の先へ踏み出そうとする意志が歌われているからではないだろうか。
 

 《ないかな ないよな なんてね 思ってた
  まいったな まいったな 話すことに迷うな》


 志村正彦はこの曲のエンディングにおいて「思ってた」という過去形の動詞を用いることで、それまでの夢みがちなモノローグをくつがえし、ほとんど映画的なまでに場面を転回させる。
 しかし、彼はこうした劇的なシチュエーションをわざわざ用意しておきながら、その結末をはっきりと歌うことはあえて選ばなかった。


 《最後の最後の花火が終わったら
  僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ》


 私は、はぐらかすかのように歌われるこの一節の、《僕らは変わるかな》というたったひとことにこそ、志村正彦がこの曲で歌いたかったことが集約されているように思う。
 
 それは、ここでの「な」は、これまでに何度も繰り返された「ひとりごとの終助詞」とは、微妙にその働きが異なるからだ。
 疑問詞である「か」と、終助詞「な」の複合である「かな」には、「問いかけ」という役割がある。だから、《僕らは変わるかな》というモノローグは、自分自身に向かってつぶやくようでありながら、目の前の相手に語りかけているようでもありはしないか。
 そして《同じ空を見上げているよ》と語りかける最後の一節は、「僕」ではなく、「僕ら」という複数形の一人称をためらいがちに差し出しているのだ。


 志村正彦が「若者のすべて」で歌いたかったのは、実際には歌われていない《最後の花火が終わった》あとのことなのではないだろうか。「ひとりごと」の孤独を描き切ることによって、その先へ踏み出そうとする瞬間を歌いたかったのではないだろうか。
 だから私たちは、この曲を聴くたび、歌うたびに、「ひとり」という人間の最小単位を自分のなかに認めることができる。そして、そこから《そっと歩き出して》いくための勇気を、少しずつ、何度でも確かめることができるのだ。


講評
“若者のすべて”、“茜色の夕日”といった、フジファブリックの志村正彦が手掛けた歌詞は、なぜ多くの人の心を惹きつけるのか。その理由のひとつが「終助詞」であるところを読者に気づかせ、丁寧に解析しています。日頃、なんとなく使っている《ね》や《よ》、そして《な》といった終助詞。その意味合いを改めて理解し、志村正彦が伝えたかった真実に思いを馳せることができる、緻密かつエモーショナルな文章です。
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